最愛の父

最愛の父が旅立った。
1月に末期癌の宣告を受けてから3ヶ月と5日の短い期間での闘病生活だった。

兄は病気が発覚してから義姉と共に2日に一度病院に出向き、面会もできないのでガラスドア越しに電話したり、洗濯物を届けに行ったり。
母は仕事があったので家族全員での面会の際に一緒に来て、退院してからは仕事に行きながら朝から晩まで父の看護をし。
私は仕事をリモートに切り替えて2週に1度くらいの割合で東京と京都を行ったり来たりしながら一緒にいる間は部屋で仕事をしながら。最後の10日間は父の横で仕事をしながら。

2回の病院内の抗がん剤治療では辛そうではあったものの調子の良い日、悪い日があったりで退院してしてからは一緒に2時間散歩に行ったりもした。
父と一緒に鴨川を歩くのは幼い日以来だったので嬉しかった。
次の日も一緒に散歩をした。
京都に帰るときに毎回次はいつ東京に帰るんだって寂しそうに聞いてくる父が堪らなかった。
東京に帰る時の新幹線では毎回寂しくて離れたくなくて泣いていた。そもそも東京の暮らしが楽しくなかったこともあり、余計に辛かった。
東京に着いてからはそれを思い出す暇もないくらい忙しく、それでもたまに母と電話したりした。

3回目の抗がん剤の後、副作用が辛く、一気に食事が取れなくなった。数日前に歩いていたのが嘘だったかのように辛いと言い始め。もう抗がん剤はやめたいと言い出した。
ここから痛みを取り除く緩和ケアに切り替えることになった。
別れを惜しみながらまた東京に帰った。

父の経過は家族のLINEグループで義姉や兄が事細かに教えてくれた。
側にいない私はそれも何か現実で起きていることとは思えない日々だった。

合間合間に京都に戻る時間をもらって京都から仕事をして、それでも父が弱っていく様子は明らかだった。外で散歩などしてくれていた日は本当に安心した。

とある日夜中に父が胸が苦しいと言った日があった。
母がパニックになって救急車を呼ぼうとしていた。
兄は自分が側にいたらって悔やんでいた。

その日から兄は毎日家に帰った。
私のところには義姉から連絡が入り1日でも早く帰ることができるなら帰ってこいと言われた。
その日の新幹線で帰らせてもらうことにした。
職場の上司は本当にサポーティブでファミリーファーストだといつも言ってくれていた。
自分の担当している仕事があったので迷っていたがこの時帰る決断をして本当に良かったと思った。

京都に着いたら父は10日前より明らかに弱っていたがそれでも自分で漫画を読み、テレビを観ていた。ただいまと言ってもあれ、なんで帰ってきたんだくらいのテンションだった。
緊急性を感じていたのでその父の態度に少し安堵した。
そこからの10日間はずっと側にいた。ある日ミーティングがあったため、父との部屋を出て自分の部屋でコールをして部屋に戻ってきたら父がトイレから呼び出してきた。
そこにはうずくまっている父がいて、すぐにトイレを片付け、父の服を整えた。
トイレが辛そうでその日以降くらいから1人で立ち上がれなくなっていき、介助が必要となった。その日を境に部屋で仕事をするのはやめて隣で付きっきりでいるようにした。

リモートワークのおかげで仕事が始まるギリギリまで眠ることができた私は朝は兄や母に任せ仕事が始まるタイミングから父との時間を一緒に過ごした。
とは言っても私は仕事をしているので基本的にあまり話したりする時間はなく、昼休みの時間や夜に仕事を回すことで合間合間に父の足のマッサージをやったり、義姉が来てくれたので一緒に父との時間を過ごした。

それでも癌の痛みは容赦なく父に襲い掛かり、トイレに行くときは形相が変わっていて毎朝のようにこんなに辛いなら早く逝かせてくれと言っていた。

亡くなる3日ほど前に母と兄夫婦で病院へ行き、次の日に父を沈静化させることになった。痛みが取れない父の意識レベルを下げ、眠りたい時に眠れるように。

医者が来る1時前くらいに兄が来て私の腕を掴みながら泣いた。
鎮静をしたら大体1週間くらいだと言われた。兄の奥さんの母がそうだったと。
兄はそのまま部屋に行って声を上げて泣いていた。

私はそれでも現実にそんなことが起きるのかと言う半信半疑な気持ちだった。

その日から家庭内ナースコールを買って夜中でもしんどい父のそばに寄り添って、亡くなる前日は何か予感がしたのか側にいてくれと言った父の側にいながら隣に寝たりしてみた。
そのころはもう寝返りも1人で打てず横に寄りそうことが多かった。
鎮静をしているものの意識レベルは割としっかりしていて話しかけるとうんうんと頷くことも多かった。
私はコミュニケーションが取れることが嬉しくて父がして欲しいことを解りたいと思いベッドの横で話しかけたり、一緒にベッドに寝転がって父の背中や手に触れていた。

亡くなった日は前日からずっと眠れなさそうで何か父は動いていた。
兄は姉と葬儀社に打ち合わせに出た時だった。
所在なさげな父の手を繋ぎずっと側にいた。横に来て欲しそうだったので父を背中から抱き締めるような形で寄り添っていた。
すると急に血を吐いた。少量かと思ったらどんどん口からも鼻からも出てきた。
背中をさすった方がいいのかと聞いた。ううん、と首を横に振った。
全部出してとパニックになりながら母と父を呼び抱きしめた。
父の頭を腕に抱え、吐血しながら父はそのまま逝ってしまった。

何度叫んで呼んでももう、うんうんと頷くことはなかった。
そのまま抱きしめて父の目を塞いで、呼んでいた先生が来るまで父を抱きしめて待った。
先生が父の死を確認して、その後は看護師さんと一緒に父を綺麗にしてあげた。
血だらけの口や鼻や、体も全部綺麗にしてあげた。

あんなに苦しそうだったのにその顔は安らかだった。
口からも鼻からも血が出ていたので苦しまずに逝けていたらいいのだけれど。
毎日のようにこんなに辛いなら逝かせてくれといっていたので痛みが少しでも柔らいでいたらいいなぁ。

そこからは親族が来たり、葬儀の話になったりであっという間にバタバタ通夜と葬儀が過ぎて行ってしまった。

判明してからのこの数ヶ月、家族が本当に一つのチームとして父の側にいて、特に帰ってからの10日間は私は父への愛情がとめどなく溢れ、夜中に何度呼び出されようが、トイレの介助をしようが父への愛おしさしかなかった。
何度も眠っている父の頬やおでこにキスをしたり重さがかからないように体を添えるようにして抱きしめた。大好き、愛してると何度も何度も父の耳元で囁いた。
聞こえていたら少し恥ずかしい気持ちと伝えたい思いでそっと囁いた。
通夜前に父の写真で思い出を振り返っているとそこには本当に幸せそうな私と父と兄の姿がたくさんあった。幼い頃からお父さん子だった私はとにかくいつも父の側にいた。
写真でもそうだし、実際にいつも父親が大好きで寄り添っていたのを自分でも覚えている。
父の元に産まれて育って本当に幸せだと、この気持ちが少しでも伝わっていればいいなと思う。

葬儀の次の日に夢に父が出てきた。
自分の遺骨と遺影を見ながら「あーえらかったわー。」といつもの調子で笑いながら言っていた。

きっと今は痛みから解放されたのだろう。
これからは側で見守ってくれるかな。いや、好きなように自由にしてるのかもしれないな。

都内某会社広報。TRAVEL, LIFESTYLE, CAFE, COFFEE, FOOD, BAR 18カ国、特に好きなのは北米:カナダ、ニューヨーク、東南アジア全般。 2022年、コロナ明け初の旅行はタイ サムイ島とバンコク。 Instagram @00yukilife

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